スミレ歯科日記 その2 of スミレ歯科ホームページ

DSC00465.JPGスミレ歯科日記その2


人と人とのつながり___昔を懐かしむ。

2015-11-19
 スミレ歯科に来てくださるたくさんの患者さん・・
みなさん歯科治療を受けに来られているということもあり、おひとりおひとりとゆっくりお話をするということはあまりないのですが、時間さえあれば余計なことをしゃべってしまう私、副院長です。
 といいますのも・・
 人が好き、人と話すのが好き、だからです。

 親が転勤族だったため、転校を何回か経験しまして。
 小学校4年生のときに転校した先は、いわゆる「へき地」でした。
 一学年が10〜20人くらいしかいない、少人数の学校。
 転校生はそれはそれは好奇な目で見られます。
 そんな中、少しずつ友達を広げていかなければ平和に過ごせないのが、子供ならではの残酷なまでの閉鎖的なグループ関係があるが故、だったりもします。
 ま、そんなことも関係なく過ごせる性格でもあったのですが。
 学校でもそれなりにコミュニケーションをとりながら、地域の方々とのコミュニケーションを大事にするのが田舎のルールです。
 最初は小さな世界で誰もが知り合いという、経験したことのない密な人間関係に戸惑ったものです。
しかし、何年かたつにつれ、少しずつ地域の方とのコミュニケーションがとれるようになりました。
 ◯◯くんのお母さん、◯◯ちゃんのおじいちゃん、おじさん、いとこ、役場のおじさん、学校の用務員さん、農協のレジの人、◯◯ストアの人、あそこの田んぼの人、公民館の館長さん、毎日通りかかるおばあちゃん(背中にカゴをしょっている)・・・・。
 全員知り合いです。そして誰かが誰かの身内で、親戚で。
 町内の運動会は、欠席をすると罰金をとられます(笑)。
 鬼火たきや餅つき大会、ゲートボール大会にソフトボール大会、田植えに稲刈り、魚釣り大会、あと・・・とにかくたくさんの行事がありました。
 もちろん、全て参加しました。
 
 本当は、
 田舎はつまんないなあと思っていました。
 毎日、毎日、自分の机から見える田んぼだらけの風景を疎ましく思っては、いつか抜け出してやる、そのために今できるのは、とりあえず勉学だ!と自分に言い聞かせながら、塾などない世界で、自力で勉強をし、歯をくいしばって生きてきました。当時調子にのっていた私は、こんなせまい世界でせまい人間関係を築いているだけにみえた友達を小馬鹿にしたりもしていました。
 そんな時期、私のそういう気持ちを見透かしたかのように、本当の友達はできませんでした。
 でも、それでもコミュニケーションをとっていかないといけないので、頑張っていろんな行事に参加したりするうちに、田舎ならではの良さに気づいたことも多く、やがて知り合いだろうがそうでなかろうが、周りの誰とでも楽しくやりとりできるようになりました。あの数年間で得た、かけがえのないものは、おそらく多種多様な人と関わっていけるだけのコミュニケーション能力だと、思います。
 いつのまにか、田舎の濃密な付き合いをたいせつにしながらも、自分は自分という、適度な距離感を持ちつつ、心から関係を楽しめるようになったのです。
 家の隣には自然の小川が流れていて、その小川には蛍が生息していたので、夜になると蛍が部屋に飛んできて、父が手のひらにその蛍をのせて、電気を消してみようと言ってはその蛍の柔らかい光を家族全員で見つめたり。星が一面に輝く夜には、望遠鏡を出して木星を観察したり、冬になるとオリオン座を探したり。そういう過ごし方ができたのも、自然いっぱいの土地だからだと思います。
 たまに通りかかったおばあちゃんから採れたてで土のついた大根をいただくのだけど、そのおばあちゃんは私が◯◯さんちの子供だと知っているのだけど、私は知らなくて、後になって○○ちゃんのおばあちゃんだったということを知らされたり・・。
 なんか・・いいですよね。

 時が過ぎ、今は福岡でそれなりに便利な暮らしをしていますが、
 自分の子供には、田舎のよさ、自然に触れ合うことの素晴らしさを、教えていきたいと思います。
 ものを消費することだけが文化ではないから。
 自分の手で、ものづくりを経験してほしいし、お米だって、作り方を知らないと美味しさもわからないし、わらで草履が作れるんだよとか、正月の門松はこうやって作られるんだよとか、昔ながらのお手玉の中に何が入っているかとか、ゲートボールはやってみると実はちょっと意地悪なスポーツなんだよとか、田植えのコツとか、鎌で刈る稲刈りやそのあとに使ったせんばこぎのアナログ感とか、生足でヒルに噛まれたときの痛みとか、苺の育つビニールハウスの蒸し暑さがどれだけのものかとか、ゲンゴロウがどういう生き物か、農薬を散布しているときに窓を開けていたらどんなに大変なことになるとか・・そういう誰もが経験できない面白いことを全て体験、させたいです。
 今でもその当時の友達と付き合いがあるので、もうちょっと大きくなったら、友達のところにホームステイをお願いして、少しでも経験させてあげたいです。
 私の大事な友達は、自然いっぱいのところで今も暮らし、地元に根付いて生きています。
 そういう友達や、そこで過ごした思い出を胸に、今自分は歯科医師としてこの地で医療を実践しているのですが、そういう「感覚」が少しでも患者さんい伝わるといいなと思いながら毎日楽しく会話をしています。歯科は最新技術の世界だと思いますが、人生を通して五感で体感したことが全て出るようにこれからも頑張りたいと思います。それはきっと院長も同じだと思います。投網の才能が、歯科にもつながりますように・・・。
 
 
 

DSC00465.JPGスミレ歯科日記その2


尊敬する父の話。

2015-11-19


 みなさん、子供の頃、新学期になると、家庭の詳しい状況や通学路の地図を書かされた経験はありませんか?

 私の父は数年前に退職をした元小学校教員ですが、春になると、母がいつも「今年もこの季節がやってきた・・・」と、半分笑いながら私に電話で教えてくれる我が家の恒例行事がありました。
 それは、父との散歩です。
 ただの散歩ではありません。
 自分の努める学校の、全児童の、家庭から学校の往復の道のりを、母と2人で歩く、その散歩です。
 全児童分の通学路なので、全部を知るまでに数ヶ月かかっていましたが、父にとっては当たり前のことであり、誰にもそれを言わずに、毎年行っていました。
 子供たちの命を守るために、命への責任を果たすために、通学路を子供の目の高さで確かめて、危険な箇所はないか、危険な誘惑はないか、死角はないか・・・そういう気持ちで歩いてあらかじめ危険なポイントは全て把握する必要があるのだと父は言っていました。
 まぎれもなく、これが私の父であり、父の仕事への姿勢そのものです。

 父は、子供たちからも本当に好かれていました。
 ある小学校の教え子は、複式学級で3、4年生頃に1回だけ担任をした父に、大人になってから結婚式の仲人を依頼してきました。
 ある時期担任をしていた特殊学級の子供たちは、担任を終えても、毎日のようにうちの縁側で楽しそうに放課後を過ごしていましたし、父は子供たちのために昆虫舎を建てたり、手作りのビオトープを作ったり、竹馬を作ったり、収益で学校の備品を購入するために椎茸を栽培したり、学習用ゲームのプログラムを作ったり、とにかく全ての時間を子供たちのために活動していました。昼休みにクーラーの効いた職員室で過ごしていた姿は見たことがなく、常に校舎の外で子供たちと楽しそうに遊ぶ父の姿がありました。数年間だけ、父の小学校に一緒にいた時期があったので、私はそんな父の姿をよく覚えています。

 小学校こそ、子供たちを育てる大切な時期であり、教える側に幅広い知識がないといけないという信念のもと、数学、言語、地理、物理、生物、日本語、英語、ドイツ語、中国語、ロシア語、モンゴル語、考古学、天文学、法律、建築、歴史、・・・我が父に質問をしてみると、どのような分野でも必ず確かな知識が瞬時に返ってくるので、私は物心ついたときから今に至るまで、父に対しては尊敬という言葉しか出てきません。
 遠くに見える蝶の飛び方(軌跡)ひとつで、種類を正確に教えてくれます。植物を指差すと、その植物の名称や分類だけではなく、歌人がその昔詠んだ和歌をもさりげなく添えてくれます。父が自分の学校の敷地内にある全ての植物にプレートを作ったという話を聞き、見に行くと、そのときもやはり全てのプレートに和歌が書いてありました。昆虫舎も、全て設計施工を父ひとりで行っていました。あるときは、社会科見学で訪れた、町の遺跡発掘現場にも当たり前のように担当者として解説する父がいましたし(日本考古学会の会員でもありました)、県に出向していた時期には、古文書の解読依頼が県の歴史資料センターから父の元へ送られてきては、数日で解読、返送したり。博物館などの学芸員の指導もしていました。ある時期は父の寝床は古文書だらけだったのを覚えています。そして退職した今でも、本を片手に焼酎を飲みながら、変わらず知識欲の塊のような生活を続けています。

 そんな真面目な父ではありますが、楽しい父でもあります。学校では、子供たちに泥だんご作りの指導もしました。子供たちと父の間だけで泥団子がブームになっていた時期に父の家に遊びに行くと、休みの日にも関わらず、子供たちが玄関に座っているのです。何をしているのかと思い見ると、みんな自転車で来て、泥団子を持って集まっていました。それぞれの団子を、つるつるに輝かせるにはどうしたらよいかと、毎日毎日校長室に通っては父に添削してもらっているようなのですが、それでも足りずに、日曜日に父の家に来てまで習っているとのこと。男の子というのは本当に素晴らしいものです。形を整えて1日に2回も持ってくる子もいました。何よりも、泥団子というジャンルひとつに対してひどく真面目な指導を行っている父に、こちらが思わず笑ってしまうくらいでしたし、学校に遊びに行ったら、父の部屋(校長室)の前の廊下には完成された泥団子が一列に並んでいて、「できました。出来はどうでしょうか?◯◯」といったメッセージが添えてあり、それはそれは壮観な光景だったのを覚えています。時間のある時に個人個人に泥団子のアドバイスをしているのだとのこと。もはや圧倒されるしかない泥団子への情熱でした・・・。
 そういう父ですが、県の校長会(小中学校全ての校長が一斉に集まる会合)では、数百人の校長先生を前に、なぜか父が代表で講演をしていました。そういうことを依頼されるくらいに、仕事が「デキル」ところも、大好きです。

 ちなみに専門は体育だったので、部活の指導もソフトボール、サッカー、バレーボールと幅広く、いろんな競技の審判員の資格も持っていたのですが、とりわけバレーボールでは、県の大会の決勝戦で主審を務める父の姿が本当に格好よかった記憶があります。自分のチームに試合ではとっくの昔に負けているにも関わらず、私たち家族は体育館の外で長時間待たされたり・・・本職が何なのか(明らかに小学校教員なのですが)、とにかく謎の多い父でした。体育の先生だからか、父はいつも海パンで小学校の校庭を横切ってプールに歩いており、その姿が父のワイルドな一面でもありました。家に帰ると、「いやー、今日は一年生のプールでな、一番後ろの子について指導していたら、急に生温かくなってきてな、『この子、やったな』と思ったよ。しかし知らんふりしてるのが可愛いよな。」などと笑って話していました。

 さて。
 とある田舎の小学校では、1年生から6年生までが、昼休みになると、一斉に父の元に集まり、多種多様な遊びを一緒にしたいと言ってきて混乱するので、「年齢によってしたい遊びがあまりにも違うから」と、曜日で学年を分けて、父と遊べる日を公平に日替わりにしたりしていました。
 母子家庭の男の子(確か小学校低学年だったと思います)が、当時単身赴任中であった私の父のもとに、「せんせい,ぼくのおとうさんになってください」と、家までひとりで訪ねてきたこともありました。あまりにも純粋な気持ちからくる行動だったので、うちの母も、私たち家族も、「どうぞと言ってあげたいけど・・・私たちにとっても大事なお父さんだから・・・あげられないね・・・」と涙が出るくらいに嬉しい出来事におおいに感じ入りました。と同時に、やはりそんな父を誇りに思いました。

 父のことを考えると、次々と出てくる思い出とともに、父と、父を慕う子供たちの姿に、今でも感動が押し寄せてきます。

 これほどまでに父の事を尊敬しているので、私は尊敬する父の仕事ぶりを学ぶべく、節目節目に、父の務める小学校を訪れ、そこの先生方や子供たちとも触れ合ってきました。年末には、父と2人で寒空の中、正月用の門松をのこぎり片手に汗をかきかき手作りしたこともあります。「こんな簡単なことを業者に頼むくらいなら、そのお金で図書館に本を買うべきなんだ。お前はそう思わないか?」という父の言葉にうなずきながら。
 子供たちが素敵な新年を迎えますように・・・と。
 やがて社会人になった私は、父の退職の日にも、あいさつの言葉を聞きにいきました。
 案の定、30秒以内に終わりました。
 父は、全校朝会でも、運動会でも、学芸会でも、「話は短く!そうでないと子供たちが(炎天下で)倒れてしまうから」と、徹底して短いスピーチで有名でしたから。しかし、さすがに自分の教員生活最後の日だから、さぞかし感動のスピーチが繰り広げられると信じていたのですが。
 「校長せんせいは、みんなのことが大好きでした。・・・新しい学年に進んでも、みなさん元気で過ごしてくださいね!ではさようなら!」といった感じで、「ほら、あなたのお父さんの番がきたわよ」と、私にアイコンタクトを送ってくださった保護者の方々も、娘の私も、コケそうになりましたから。母だけが、「やっぱりね。だから聞きに来なくてもいいって(私に)言ったでしょ。」と、冷静にコメントしていました。
 こんなにあっさりと長年の現場を去っていった父こそが、
 日本でおそらく一番の「せんせい」だと、私は信じています。
 仕事への姿勢の全ては、一生父に敵うことはないでしょうが、それでも、父を目指して生きていくつもりです。

                                       娘。